真面目な音楽の話

ショスタコーヴィチと大粛清の中での創作とプラウダ批判について語る

ショスタコーヴィチ作品を語る上では欠かす事のできないワード「プラウダ批判」。

傑作《交響曲第5番》を生み出すきっかけにもなったこの一連の出来事は一体何故起こったのでしょうか・・・?

順風満帆とも言える彼の創作に陰りが生じたプラウダ批判、その原因を個人的に分析します。

順風満帆な創作

1926年。ショスタコーヴィチ19歳。彼は音楽院の卒業制作として《交響曲第1番》を作曲します。

この曲は絶賛され、彼の音楽家としての明るい未来を暗示しているかのようでした。

続いて1927年には交響曲第2番《十月革命に捧げる》を、1929年には交響曲第3番《メーデー》を作曲。

1934年、あの物議を醸したオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》がレニングラードで初演を迎えます。

昼ドラも真っ青な内容で、「反道徳的」という言葉がこれ程までに似合うオペラもないのではないでしょうか。

ですがこの作品は非常に好評で、2年で83回も上演されるという大ヒットを記録したのでした。

大粛清の嵐

さて、この1934年というのはちょうどスターリンの所謂「大粛清」が芽を出し始めていた頃でした。

正確にいうと大粛清自体は1937年あたりから本格化するのですが、その発端としては1934年、キーロフ暗殺事件にあったと思います。

キーロフはスターリンの後継者と目される程の人物だったのですが、1934年12月に暗殺されてしまいます。この実行犯とされているニコラエフという人物の妻とキーロフが不倫をしていたことによる三角関係のもつれが原因だとされたのですが、当時から謎の多い事件でした。

側近が暗殺されたことに危機感を覚えたスターリンは事件の背後関係を徹底的に調査。勿論暗殺の実行犯であるニコラエフはすぐさま死刑になったのですが、その後、レニングラードの党関係者約5000人(!)が逮捕されて収容所に送られました。

この調査の結果、スターリン政権を貶める陰謀があり、それにはカーメネフ(プラウダ誌の編集委員会に所属していたこともある)やジノヴィエフなどの党の中心人物も加担していた・・・とスターリン政権は発表しました。

一説にはキーロフの人気に危機を感じたスターリンが暗殺を命じてその実行犯をも口封じに殺した・・・とも言われているようですが、真相は闇の中です。

いずれにせよ、このキーロフの暗殺事件が引き金となり、スターリンによる「大粛清」が始まったのでした。

音楽のかわりに荒唐無稽

話を《ムツェンスク郡のマクベス夫人》に戻しますが、レニングラード、モスクワとも初演の反響は上々でした。

多くの作曲家、演出家がこぞって絶賛したこのオペラは「ソヴィエト・オペラ芸術の輝かしい開花を裏付ける」という当局からの評価で完全に党からのお墨付きを得た形になりました。

この栄光に陰りが生じたのは1936年。

「ある朝目覚めてみると、僕は有名になっていた」というジョージ・ゴードン・バイロンの有名な言葉がありますが、それとは全く逆の意味でこの日ショスタコーヴィチも有名になっていました。

1936年1月28日。共産党の機関紙「プラウダ」にて《ムツェンスク郡のマクベス夫人》を批判する記事が掲載されたのです。

事の発端はその2日前。スターリンはモスクワで上演されていたこの作品を観劇しに行っていました。スターリンはこのオペラの第3幕まで観ると第4幕が始まる前に帰ってしまいます。

スターリンが何を思って途中で帰ったのかは分かりません。一説には第3幕で風刺的に描かれていた警察署長が気に入らなかった(警察=権力=国家=スターリンという連想から)とも言われているようですが・・・

なぜ最後まで観劇しなかったかは誰にも分かりませんが、

「最後まで観劇しなかった」

この事実が最も大事なのです。

ソヴィエト連邦を代表する作曲家は一夜にして「人民の敵」になりました。あらゆるメディアがスターリン政権への忠誠を示すためにショスタコーヴィチを批判します。彼を批判しないことは国家への反抗とみなされる恐れがあったからです。

演出家のメイエルホリドや赤軍将校、トゥハチェフスキー元帥などは彼を擁護したようですが、決して事態は好転しません(以前の記事で述べたようにこの2人は大粛清の犠牲となります)。

なぜこれほどまでの批判を受けたのか?

初演から2年で83回の上演が行われたヒット作が一夜にして批判の槍玉に挙げられたのは一体何故だったのでしょうか。

スターリンは文学に比べると音楽への知識があまり豊富ではありませんでした。

そもそも「オペラ」というジャンルが彼の嗜好に合わなかったのはあるようですが、それだけでは彼が自ら率先して作品の批判の口火を切るほどの動機にはなり得なかったと思います。

《ムツェンスク郡のマクベス夫人》が批判されたのは「粗野で」「原始的で」「俗悪」であるといった内容からでした。

人妻の不倫、愛人との共謀による親族の殺人がこの作品の内容ですが、この「親族の殺人」というのが一つのキーワードな気がします。

党内でのキーロフ暗殺、そして遡る事約1年半前の、スターリンの妻のピストル自殺(スターリン犯人説が事件発生時から噂されていた)。

これらのスターリンの過去の出来事とリンクする「親族を殺害する」という内容のオペラの聴衆が熱狂している事を目の当たりにした事による政権への危機感が、「プラウダ批判」となってショスタコーヴィチの芸術家生命を脅かすことに繋がったのだとしたら・・・

何も表立ってスターリンがこのオペラを批判する必要はないのです。

ただ黙って、最後まで観劇せずに劇場を後にすれば、あとは「忖度政治」とも言えるソヴィエトの政治のメカニズムがこのオペラの上演を中止に追い込む結果になるでしょう。

その後、交響曲第4番の初演撤回に

プラウダ批判が起こった後、ショスタコーヴィチをピアニストとして招聘する都市はなくなり、彼は作曲に没頭するしかありませんでした。

交響曲第4番は1936年4月に完成し、同年12月に初演を予定されていました。

ショスタコーヴィチの交響曲の中で最も大きい編成で、最も難しいともされる《第4番》はあまりに前衛的な内容のためか当局の批判にさらされていた彼にとっては芸術家生命を絶たれる決定打にもなりうるものだったと思います。

そのため最終リハーサルまで着手されていながら初演が撤回されて、この作品が日の目を見るまでに約25年の歳月を要することになりました。

先ほど芸術家生命を絶たれると述べましたがそもそも「生命」そのものが危機に瀕しているといっても過言ではありませんでした。大粛清の嵐が吹き荒れていた1936年。ショスタコーヴィチのすぐそばまで大粛清の手は伸びていました。

ショスタコーヴィチの姉の夫は逮捕されていますし、彼の義母(妻の母)は強制収容所へ。

夜中に足音が近づいて来ると誰もが恐怖に怯え、その足音が自分の住む部屋の前で止まることは逮捕を意味するという時代。

プラウダ批判によって窮地に追い込まれていた彼が新作交響曲の初演を撤回する決断をしたのも、無理はないと思います。

この曲の解釈についても、また別の更新でお話できたらと思います。

なんにせよショスタコーヴィチは《第4番》の初演を撤回。続く《第5番》で「一見、体制に迎合したかのような姿勢を見せ」たことにより名誉の回復を図るのです。

《第5番》の初演当日のプログラムに記載された「勝利によって締めくくられる長い精神的葛藤」とはプラウダ批判に始まりこの曲の初演を迎えるまでの作曲者本人の心の内を総括したものかもしれません。

今回は以上です。語りたい作品がたくさんありすぎてテーマを絞ることができません。次は《第4番》についてか、《第7番》についてか・・・

また更新します。

ABOUT ME
condzoomin
指揮者・ピアニスト・愛猫家。ショスタコーヴィチの作品研究と演奏をライフワークにしています。好きな日本酒は浦霞。